Blind Wind Blog

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ハッピーエンドの定義ってなんだろう?

具体的な映像として浮かぶのは、仲間全員が生き残っていて
喜びを分かち合う、何ひとつ欠けることのないエンディング。

そこに仲間の死は含まれていてはならない。

のだと思っていた。つい近頃まで。

私は人が無駄に死ぬのが嫌なだけで
大往生についてはむしろ歓迎すべきことなんだなって(ある意味、いまさら)気づいた。

近頃読んだ某小説作品では、才気溢れる若い人物が
半ば事故に近い形で死んだ。
私はそれにショックと、あきれたような思いを抱いて、その作品を嫌いになった。

近頃観た某映画作品では、歳老いた重要人物が死んだ。
物語が文字通り180度変わってしまうほどの出来事だったのに
私はどこか安堵して、よかったなあって、思った。

問題は悔いが残るかどうかだ。
将来性とか、やり残したこととか、その人にできたはずのこととか
そういった要素が、その人の死を惜しませて、時に怒りにすら変える。
そういうものが、(あるとするなら)死の意義を示す一端になるんだと思った。


これは物語についての話だけれど。
現実でもわりあいにそうで。

おととい、偶然、数ヶ月前に自殺した友達が参考にしたであろうウェブサイトに行き着いて
なんともいえない感傷を抱いた。
彼にとっては福音であっただろうそれは、私に悲劇的な結末をもたらしたけれど
自死が結局、彼自身にとってプラスだったのかマイナスだったのか
それすらいまだに判断しかねている我が身では、
そのウェブサイトを憎悪し破壊しつくすためのありとあらゆる手段を講じるべきかどうかを
決めることもできなかった。


また、いまの職場では、しばらく見かけない年配のお客さんがいると
「死んだかな」
って、平然と言う。
上司達は冗談でもふざけているわけでも全くなく、本心からドライに
ほとんど無表情で、そう言うのだ。
それは実際に、そうだったことが過去に多々あったということの証左。

そして死が、悲しむことでもなんでもなく、いつでもどこでもありうる
普遍的なことだということ。
自分がそれだけ、人の生活に密接して存在するということを表している。

ぞっとする。圧倒される。
だけど同じくして、何か感動に近いものも覚える。
私の生きている世界は、そういうものなんだって、実感する。


それでも、それだからこそ、か。
人の死の解釈はむずかしい、と常々思う。
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